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辞めない社員は「適応」しているのか——恒常性維持と離職行動の神経生物学

ウォルター・キャノンが1932年に提唱したホメオスタシスという概念は、生体が内部環境の恒常性を能動的に維持しようとする機能を記述した。体温・血糖・血圧——これらは外部環境の変動にかかわらず、一定の範囲内に保たれる。この概念は生理学の金字塔として医学教育に組み込まれているが、私はこれを組織行動論に援用することに、長年ある種の知的抵抗を感じてきた。なぜなら、「恒常性の維持」という言葉は、しばしば「現状にとどまること」の正当化に使われるからだ。

しかし産業医として企業に関わるなかで、ある逆説的な事実に繰り返し直面する。「辞めない社員」が必ずしも組織に適応しているわけではなく、「辞める社員」が必ずしも失調しているわけではない、という事実だ。キャノンのホメオスタシスをより精緻化したピーター・スターリングのアロスタシス(allostasis)理論——身体は単に「恒常性」を守るのではなく、予測に基づいて動的に内部基準を変動させる——を参照すると、この逆説は別の相貌を帯びてくる。

アロスタシス負荷(allostatic load)という概念がある。身体が環境変動に対応し続けた結果として蓄積する生物学的コストの総量であり、マックアーサー研究ネットワークによって、コルチゾール・炎症性サイトカイン・血圧・体脂肪分布などの複合指標として定量化されている。重要なのは、「辞めない」という行動が、このアロスタシス負荷を低下させているとは限らないという点だ。むしろ逆の場合——離職という行動が、生体のアロスタシス負荷を最小化するための最適解として選択されている場合——が、神経科学的には十分ありうる。

本稿では、産業医の立場から蓄積してきた臨床観察を基盤としつつ、離職行動・在職行動を「意志の問題」や「根性の問題」としてではなく、神経生物学的・心理生理学的なシステムの出力として解析する。「辞めない社員」と「辞める社員」の間に横たわる本質的な非対称性を、機序と証拠によって記述することを試みる。

アロスタシス負荷という測定軸——「耐える」ことの生物学的コスト

スターリングとアイヤーが1988年に提唱したアロスタシス理論は、身体の調節機構を静的な恒常性維持ではなく、予測的・動的な負荷分散として再定式化した。この枠組みにおいて、ストレス応答は「問題」ではなく「適応コスト」である。コルチゾールの分泌、交感神経系の活性化、免疫応答の変調——これらはいずれも、環境変動に対処するための生物学的投資であり、その投資が長期にわたって回収されない場合に、アロスタシス負荷として蓄積する。

マックアーサー財団の成功的老化研究(MacArthur Studies of Successful Aging)において、アロスタシス負荷は10種類の生物学的マーカー(尿中コルチゾール・ノルエピネフリン・エピネフリン、収縮期/拡張期血圧、HDLコレステロール、総コレステロール/HDL比、HbA1c、ウエスト/ヒップ比、デヒドロエピアンドロステロン-硫酸塩)の複合スコアとして定量化されており、認知機能低下・心血管疾患・全死亡率と有意な相関を示すことが確認されている(Seeman et al., 1997, PNAS)。

この枠組みを職場環境に適用したとき、重要な問いが浮かぶ。慢性的に高ストレスな職場環境に「辞めずにとどまる」という行動は、アロスタシス負荷をいつ、どの程度蓄積させているのか。そして「辞める」という行動は、蓄積しきる前の離脱なのか、それとも既に蓄積した後の破綻なのか。この時間軸の問いが、離職研究において体系的に欠落していると私は考える。

予測的符号化理論と「会社に残る」という認知処理

カール・フリストンが提唱した予測的符号化(predictive coding)理論、およびその拡張である自由エネルギー原理(free energy principle)は、脳が感覚入力をpassiveに受け取るのではなく、内部モデルに基づいて環境を予測し、予測誤差(prediction error)を最小化するように行動を選択するシステムであるという主張の上に成り立つ。

この枠組みにおいて「行動」とは、予測誤差を最小化するための能動的推論(active inference)の産物である。「会社に残る」という行動も「辞める」という行動も、どちらも内部モデルが生成した予測に基づくアクションポリシーの選択として解釈できる。問題は、どちらの選択肢が予測誤差を小さくするかではなく、その個人の内部モデル——過去の経験・愛着スタイル・自己効力感・役割同一性——がどのような「未来」を予測しているか、という点にある。

慢性的に高い職場ストレスに曝されながら離職しない個人の内部モデルは、しばしば以下のいずれかの構造を持つことが産業医の観察から示唆される。第一に、「辞めた先」に関する予測誤差が極めて大きい(すなわち、不確実性が高い)場合。第二に、「辞める」という行動そのものが、自己の内部モデルと矛盾する(すなわち、アイデンティティと乖離する)場合。第三に、感覚入力——職場からの苦痛信号——が内部モデルによって持続的に抑制・再解釈されている場合。この第三の機制は、後述するソマティック・マーカー仮説とも深く関わる。

ソマティック・マーカーの欠落——「辞め時」が認識されない神経機序

アントニオ・ダマシオが1994年に提唱したソマティック・マーカー仮説(somatic marker hypothesis)は、意思決定において身体感覚シグナル——腸管神経系・島皮質・前帯状皮質を介した内受容感覚(interoception)——が決定的な役割を果たすという理論的枠組みである。腹内側前頭前野(vmPFC)がこれらの身体シグナルを統合し、将来の結果に対する情動的な予評価(pre-evaluation)を生成することで、合理的な意思決定が促進される。

ダマシオの研究が示した最も重要な知見の一つは、vmPFCに損傷を持つ患者が知能・記憶・言語能力を保持しながらも、日常的な意思決定に著しく障害をきたすという観察である(ソマティック・マーカーが失われると、選択の結果を「感じる」ことができないため、表面上は合理的でも実際には不適切な選択を繰り返す)。

この視点から「辞め時がわからない」という現象を再解釈すると、それはしばしば「意志の弱さ」ではなく、身体シグナルの読み取り能力——内受容感覚の精度——の問題である可能性が浮かぶ。慢性ストレス下において、コルチゾールの持続的分泌は島皮質・前帯状皮質の活動を変調させ、内受容感覚処理の精度を低下させることが動物実験および人間の神経画像研究(fMRI)で示されている(Critchley & Garfinkel, 2017, Nature Reviews Neuroscience)。すなわち、「辞めるべき状況に気づかない」という事態は、ストレス暴露それ自体が作り出す神経生物学的帰結である可能性がある。

ポイント:慢性ストレスによる島皮質・前帯状皮質の機能変調は、内受容感覚の精度低下をもたらし、「辞め時」を示すソマティック・マーカーの信号強度を低下させる可能性がある。これは「耐えられる人」が神経生物学的に有利な状態にあるとは限らないことを意味する。

疫学——バーンアウトと離職の数値的布置

世界保健機関(WHO)はICD-11(2022年発効版)において、バーンアウト(燃え尽き症候群、QD85)を初めて「職業現象(occupational phenomenon)」として明示的に分類した。ICD-11の定義によれば、バーンアウトは「うまく管理されていない慢性的な職場ストレスから生じる症候群」であり、(1)エネルギーの枯渇または消耗感、(2)仕事に対する精神的距離の増大、または仕事に対するネガティブまたは皮肉な感情、(3)職業的効力感の低下、の3次元で特徴づけられる。

疫学データを概観する。ギャラップ社の「State of the Global Workplace 2023」報告によれば、世界の労働者の59%が「quiet quitting(静かな退職)」状態——すなわち最低限の業務しか遂行しない心理的離脱状態——にあると回答している。また23%が「actively disengaged(積極的離脱)」状態にあると報告されており、この群は組織への積極的な悪影響を及ぼしている可能性が示唆されている。

日本国内においては、厚生労働省「令和4年労働安全衛生調査」によれば、強いストレスを感じている労働者の割合は82.2%に達し、そのうち職場の人間関係(41.3%)、仕事の量(39.0%)、仕事の失敗・責任(34.9%)が上位を占めている。また同調査では、メンタルヘルス上の理由による休職・離職者が増加傾向にあることが示されており、2022年度の精神障害に関わる労災認定件数は過去最多の710件を記録している。

離職研究の古典的モデルであるモブレーの媒介モデル(Mobley, 1977)は、職務不満足から離職意図、そして実際の離職行動に至るまでの認知的プロセスを7段階で記述した。しかしこのモデルは「合理的な情報処理主体」としての人間を前提としており、前述のソマティック・マーカー欠落や内受容感覚の障害を考慮していない。近年のエンゲージメント研究では、離職意図と実際の離職行動の乖離が大きいことが繰り返し示されており(Hom et al., 2017, Journal of Applied Psychology)、この乖離そのものが神経科学的説明を必要とするパズルである。

愛着スタイルと組織同一性——なぜ人は「離れられない」のか

ジョン・ボウルビィの愛着理論(attachment theory)は、もともと乳幼児と養育者の関係を記述するために開発されたが、成人の対人関係・職場関係にも適用される枠組みとして広く展開されてきた。マリオン・バーシェイドらの研究は、愛着スタイルが職場への帰属感・上司との関係性・離職意図と有意な関連を持つことを示している。

特に注目すべきは、不安型愛着(anxious attachment)を持つ個人における離職抑制の機制である。不安型愛着は、他者からの拒絶・見捨てられることへの慢性的な不安を特徴とし、アミグダラ(扁桃体)の過活動・内側前頭前野(mPFC)による下向き調節の障害と神経生物学的に関連する(Vrticka & Vuilleumier, 2012, Neuroscience & Biobehavioral Reviews)。この神経学的基盤を持つ個人が高ストレス職場にとどまり続ける場合、それは「ロイヤリティ」ではなく、見捨てられ不安の行動的表現である可能性が高い。

一方、組織同一性(organizational identification)の観点からは、自己概念と組織概念の重複度が高い個人ほど、職場を離れることが自己の一部を失うことと等価に処理されるという認知的機制が働く。この機制は、前述の予測的符号化理論における内部モデルの構造——「自分は○○社の人間だ」という予測が行動選択を制約する——とも整合する。

Medi Faceが産業医業務で観察する典型的なパターンとして、長期在職者が初めて「辞めることを考えている」と話す場面において、その多くがすでにバーンアウトの第三段階——脱人格化(depersonalization)の顕在化——以降に達している事例が少なくない。「辞める決断」が遅れているのではなく、ソマティック・マーカーと内受容感覚の機能低下により、シグナルが本人に届いていない可能性を考慮する必要がある。

慢性職場ストレスの神経生物学——HPA軸・前頭前野・海馬への影響

慢性的な職場ストレスの神経生物学的影響は、主として視床下部—下垂体—副腎皮質(HPA)軸の調節異常、前頭前野機能の低下、海馬の体積減少という三つの経路を通じて記述される。

HPA軸の慢性活性化によるコルチゾールの持続的分泌は、海馬のグルコルチコイド受容体を介した神経毒性をもたらす。マクウィーニーらのメタ分析(McEwen, 2017, Neuron)は、慢性ストレスが海馬CA3領域の樹状突起萎縮・シナプス密度低下・神経新生の抑制をもたらすことを示しており、これはエピソード記憶・文脈学習・感情調節の障害として機能的に発現する。職場において「昔は問題を解決できたのに、今は何もできない」という訴えは、この海馬機能低下の認知的表現として解釈可能である。

前頭前野——特に背外側前頭前野(dlPFC)および腹内側前頭前野(vmPFC)——は、慢性ストレス下において灰白質密度の低下とグルタミン酸シグナリングの変調を示す。dlPFCはワーキングメモリ・認知的柔軟性・抑制制御を担う領域であり、その機能低下は「状況を変える選択肢を思いつかない」「習慣的行動パターンから抜け出せない」という硬直した行動レパートリーと直接的に関連する。この神経学的状態は、「辞めようと思っても行動に移せない」という現象の一部を説明する。

アミグダラの過活動もまた、慢性職場ストレスの重要な神経生物学的特徴である。持続的なアミグダラ活性化は、扁桃体—前頭前野の機能的結合性を低下させ(Arnsten, 2015, Nature Reviews Neuroscience)、情動調節能力を損なうとともに、脅威評価の閾値を下げる。その結果、「辞めること」そのものが脅威として処理されやすくなり、回避行動——すなわち「現状維持」——が強化される。この機制は、行動活性化システム(BAS)の抑制と行動抑制システム(BIS)の亢進という、グレイの強化感受性理論とも整合する。

「辞めない」の鑑別——適応的在職と病態的在職の区別

産業医としての実務において最も重要な課題の一つは、「辞めない」という表面的に同一の行動の背景にある、質的に異なる複数の機制を鑑別することである。以下に、臨床的に区別すべき主要な状態を整理する。

状態 内部機制 神経生物学的特徴 長期予後
適応的エンゲージメント 内発的動機・自律性・有能感の充足 報酬系(側坐核・VTA)の持続的活性化。コルチゾール日内変動の正常維持 良好。創造的産出・職務拡大
情動的コミットメント(規範的) 組織への義務感・恩義感による束縛 vmPFC—アミグダラ間の葛藤処理が慢性的に活性化 中等度。蓄積により消耗感に移行
継続的コミットメント(損失回避) 「辞めたら損をする」という損失回避バイアス プロスペクト理論的損失処理(右島皮質・前帯状皮質) 不良。バーンアウトへの移行リスク高
バーンアウトによる停滞 資源枯渇による行動不能。脱人格化の進行 HPA軸疲弊・前頭前野機能低下・内受容感覚障害 不良。介入なければ精神疾患への移行リスク
抑うつによる在職 アネルギー・意欲低下による行動開始障害 ドーパミン・セロトニン系の機能低下。前頭前野—線条体回路の障害 不良。治療介入が優先

特に鑑別を要するのは、バーンアウトによる停滞と抑うつによる在職の区別である。ICD-11においてバーンアウトは「医療的疾患(medical condition)」ではなく「職業現象」として分類されており、うつ病エピソードとは明確に区別される。しかし臨床現場においては、バーンアウトの重症例と軽症うつ病エピソードは症状が重複し、鑑別に難渋する場合がある。

鑑別における重要なポイントとして、バーンアウトの消耗感は職場文脈に限局する傾向があり(休日・職場から離れた環境では回復を示す)、一方うつ病の消耗感は文脈横断的に持続する点が参考になる。また、快感消失(anhedonia)の範囲——職業的活動のみか、生活全般に及ぶか——は、DSM-5のうつ病診断基準(A基準:ほとんど毎日続く抑うつ気分または興味・喜びの著しい減退)との照合において重要な視点となる。

介入アプローチ——薬物療法・心理療法・組織的介入

薬物療法

バーンアウトそのものに対する特異的な薬物療法は現時点で確立されていない。ただし、バーンアウトに合併するうつ病エピソード・不安障害・睡眠障害に対しては、それぞれの疾患に準じた薬物療法が適応となる。

抑うつ症状を呈する場合のファーストラインは選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)であり、エスシタロプラム(標準用量:10〜20mg/日)またはサートラリン(50〜200mg/日)が代表的である。これらはCochrane系統的レビューにおいて、プラセボ対比で有意な抑うつ症状の改善をもたらすことが確認されている(Cipriani et al., 2018, Lancet)。不眠を主訴とする場合、低用量ミルタザピン(7.5〜15mg/日、就寝前)がH1受容体遮断作用による鎮静効果と抗うつ効果を同時に提供するため、選択肢として検討される。

コルチゾール過剰分泌と関連した認知機能障害——特にワーキングメモリ障害・認知的柔軟性の低下——については、現時点でHPA軸を直接標的とした薬物療法の臨床的エビデンスは限定的であり、非薬物的介入が中心となる。

心理療法

バーンアウトおよび慢性職場ストレスに対して最も強いエビデンスを持つ心理療法的介入は、認知行動療法(CBT)である。Wagemakers Schiffersらのメタ分析(2021, Work & Stress)は、CBTベースの介入がバーンアウトの情緒的消耗感に対して中等度の効果量(d=0.43〜0.68)を示すことを確認している。特に、機能不全的認知スキーマ(「完璧にやり遂げなければ価値がない」「助けを求めることは弱さだ」)の同定と再構成が中核的介入技法となる。

近年、第三世代CBTとしてのアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)が慢性職場ストレスに対して有望な結果を示している。ACTはネガティブな内的体験(思考・感情・身体感覚)との関係性を変容させる心理的柔軟性の育成を目標とし、内受容感覚の回避——前述のソマティック・マーカー抑制と関連する——に直接働きかける枠組みを持つ。Hays & Hofmannによる系統的レビュー(2017, World Psychiatry)は、ACTがうつ・不安・職場ストレスの広範な領域で有効性を示すことを報告している。

マインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)については、島皮質・前帯状皮質の活性化を促進し、内受容感覚処理の精度を向上させるという神経科学的機序が神経画像研究によって支持されており(Farb et al., 2013, NeuroImage)、前述のソマティック・マーカー回復という観点から理論的根拠を持つ介入として位置づけられる。

組織的介入

個人レベルの介入のみでは、職場環境そのものが生成するアロスタシス負荷に対処できない。デマンド—コントロール—サポートモデル(Karasek & Theorell, 1990)に基づく組織介入——職務要求度の適正化、コントロール感の付与、社会的支援の強化——は、HPA軸の慢性活性化を緩和する組織的機序として理論的支持を持つ。

特に「コントロール感の付与」は、前頭前野—線条体回路における報酬予測信号の回復と、ドーパミン系機能の正常化に関連するとされており(Maier & Seligman, 2016, Psychological Review)、単なる「仕事の裁量」以上の神経生物学的意義を持つ介入と理解すべきである。

まとめ

  • 「辞めない」行動と「辞める」行動は、意志や根性の差ではなく、アロスタシス負荷・内受容感覚精度・愛着スタイル・組織同一性という複数の神経生物学的・心理的変数の出力として理解される。
  • 慢性職場ストレスは、島皮質・前帯状皮質の機能変調を通じてソマティック・マーカーの信号強度を低下させ、「辞め時」の自己認識を障害する可能性がある。
  • 「辞めない」には少なくとも5種類の質的に異なる機制(適応的エンゲージメント・規範的コミットメント・継続的コミットメント・バーンアウト停滞・抑うつ性在職)が含まれており、産業医はこれらを鑑別して介入方針を決定する必要がある。
  • バーンアウトはICD-11で「職業現象」として分類されており、うつ病エピソードとの鑑別には「消耗感の文脈依存性」と「快感消失の範囲」が重要な判断軸となる。
  • 前頭前野機能の低下(特にdlPFC・vmPFC)は認知的柔軟性と損失回避バイアスの変調をもたらし、「現状維持」という行動パターンを神経学的に強化する。
  • 薬物療法はバーンアウト合併症(うつ病・不安障害・不眠)に対して適応を持ち、SSRIおよびミルタザピンが代表的選択肢となる。
  • 心理療法ではCBT(効果量d=0.43〜0.68)・ACT・MBSRが職場ストレスに対してエビデンスを持ち、特にMBSRは内受容感覚精度の回復という神経科学的機序を介して作用する。
  • 組織的介入としてのコントロール感の付与は、前頭前野—線条体回路のドーパミン系機能回復と関連する神経生物学的意義を持つ。

Closing Note

物理学におけるエントロピーの増大則は、孤立系においてのみ適用される。開放系——エネルギーと物質を外部と交換できるシステム——においては、局所的な秩序の形成と維持が可能であり、それが生命の本質的な特徴である。人間が組織という環境の中に置かれるとき、その人間はもはや孤立系ではない。職場という開放系との物質・エネルギー交換の質と量が、その個人の神経生物学的秩序を維持するか、あるいは解体するかを決定する。

「辞めない社員が強い」という命題は、この開放系における交換の質を無視した静的な観察に過ぎない。アロスタシス負荷の蓄積・ソマティック・マーカーの侵食・前頭前野機能の漸進的な低下は、表面的な「在職」という観察変数の背後で静かに進行する。産業医学が問うべきは、「なぜ辞めるのか」ではなく、「この人の神経生物学的秩序は、この環境との交換によって維持されているのか、損なわれているのか」という問いである。

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代表医師・著者

近澤徹

近澤 徹

Medi Face代表医師、精神科医、産業医

北海道大学医学部を卒業後、慶應義塾大学病院で研修を経て、名古屋市立大学病院の客員研究員として臨床と研究に従事。医師であり経営者として、医療とテクノロジーを融合させた次世代ヘルスケアを推進中。在学中に創業したMedi Face社では、オンライン診療システム「Mente」を開発し、全国の患者への診療サービスを提供。また、100社以上の企業にAIドクターを導入し、自身も産業医として社員のメンタルケアを日々支援している。「下医は病を治し、中医は民を治し、上医は世を治す」を信条に、医療の枠を超えてヒトと社会を診る。